うみごころ


横浜に住んでいたとき、
横浜といっても海の際とかじゃなく住宅街だったし
風向きで時々ぷんと潮の匂いが香ってくる程度だったから、
定期的に来る、無性に「海がみたい」と思う日には、
わざわざ電車に乗って海まで行った。

みなとみらいのあたりなんかでお茶を濁すんじゃなしに
江ノ島とか鎌倉とか逗子とかまで行って、
波が白波立ててざぶんと言って寄せたり返したりする様を
きちんとぼんやり、見た。
とても長い時間。

東京に住んでたときは、
ああ海、と思ってから行くにはちょっぴり海は遠くって、
ああ、となると私は、都庁に登った。
都庁最上階の展望フロアの高みから
広大なる関東平野を、やっぱりぼんやり果てなく眺めた。

海が見たい、と思うそのときは、
もちろん、匂いや音や空気やなんか諸々込みのあの「海」に
身を浸したいのではあるけれど、
でもたぶん、その一要素として私は最も強く、
あの水平線に惹かれていたのではなかったかしら。
だからその代替として、高いところから見る地平線が
「海心(うみごころ)」を多少なりとも
満たしてくれたのではなかったかしら。

きっと私は、地平線とか水平線とかを見て、
ああ遠いとかああ広いとか思って、そして、
茫漠たる気持ちになりたいんだな。
たとえそこがサハラ砂漠や太平洋沖に浮かぶ島なんかじゃなくて、
関東平野や相模湾であったとしても。

 ◇

「届かない」とか
「わからない」とか、
「なにもない」とか。

言葉にしちゃうとただのネガティブみたいだけど
そうじゃなくて、ただただそれを噛みしめたくなるときがある。
ただそれに身を浸したい、というような。

水平線までのはるか遠さ。
だれか親しい人のなかに垣間見た深み。
そういうものに、はっとしたり、クラクラきたり、
圧倒されたり、したいのだ。
いつでもきちんと、気づいていたいのだ。

わかった気になったり、
世界がちいさくみえたり、
そんなときの私は、
ろくなもんじゃないと思う。

そうか、そうなりがちだった20代の傲慢な私は、
それでもそんなとき「おいおい」と、
うみごころを発する程度の本能は、
きちんと持っていたのだな。
そういうことかもしれないな。

いま住むここは、
海からは遠すぎて。
でも空はおどろくほど澄んで高く、
雲は毎瞬ドラマティックに湧き、流れ、
山はこんなにも大きく青い。
届かないものはやっぱり届かず、
遠いものは遥かに遠い。
それが、とてもうれしい。
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by sho-ji21 | 2013-12-23 07:12

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