■愛のこと


昨日は雨に閉じ込められて喫茶店で、大切な友人と語らう。
自分の中の気づきをまず言語化する作業というのがあって、
その次にたとえば友人やらの「他」に向かってそれを音声化して、
共感しあったり新たな気づきを生んだり、思いは増幅したりすら
するわけで、この至福を思うとやっぱり人は一人じゃあ何もできん。

語らったいろいろは突き詰めると結局「愛のこと」につながってしまって、
ああそうさ、他の言葉では言えんわ、しょうがないのよ愛だよ愛、
みたいな感じで「愛」について語り合った。



迷える他人は矛盾だらけだったり、弱かったり、浅はかに見えたりする。
大好きな友人だってそんなふうに見えるときはある。
見ててハラハラしたりイライラしたりするとき、
あたかも自分はその子の気づいていない答えを知っているように思ってしまう。
迷いのなかにいる友人を上から見てしまってる。

そんなときに「そう言ってるけど本当はこれに気づきたくないだけでしょ」とか
「それは間違ってるよ」とか言ってしまいそうになる。

でもそれは違うんだと思っている。
友人を小さく見ているとき、絶対助言なんてしてはいけない。
言いたいことを我慢するんじゃなくて、上に立つことをやめてから
たとえばその友人が固執してる考え方に違う光を当てるという意味において、
言いたいことを言えばいい。伝えたいことを伝えればいい。

極論しちゃうと、たとえば「間違い」だって、それを間違いだと
思うということは私の中でのできごとであって、
彼女がそれを行おうとしていることと何の関係もない。
たとえあとで間違いだったと彼女が思うとしても、今はその間違いを
することに意味があるのだったらそれは間違いではないんだ。
他人が告げることのできる「彼女にとっての真実」なんて、ない。

ある友人にとても腹を立てたことがあって、
話しながら泣きながら私は悲しいのよと伝えながら、
でも、最後の最後で彼女を信じることを決めた瞬間があった。
お腹に力を入れてふんばった。
ふんばるわよ、と決めてそうした。
彼女のなかにある尊厳というか、神聖な場所というか、
ピカリと光っている見えないもの。それを信じるわよ、と。
あなたの選択がそれに反するように今の私に見えていても、
それ自体の存在がなくなったわけではないということを信じる。
それがある限り、すべては彼女の勝手なのだと信じる。

調子がいい人が光って見えるのは当たり前。
で、おお、活躍してるな、うらやましいな、とかって思う。
でも、調子が悪い人のなかにもその光は変わらずある。
それが見えづらくなってるからってその存在を忘れちゃいけない。
そんなときこそ、そこの光を私は見ようと思うということ。
不思議なもので、相手が自分のどこを見てくれているか見ようとしてるか、
というのはとても伝わる。一発でわかっちゃうんだ。
自分の光を見てそこを信じてもらえるということほどうれしいことはない。

そこには多分、愛があると思う。

何年も前、いつも事後報告ばかりの私を散々なじった母親が、ポツリと、
「でもあなたがしてきた選択を全部、信頼はしてるから。」
と言ったときのことを私はたぶん一生忘れないよ。
信頼してもらえていたなんて、そのとき初めて知った。
なんてばか。愛されるということをその有難さを教えてもらった。

私はこの友人に対してお腹に力を入れたとき、信じようと決めたとき、
母さんがいったいどれほどの力をお腹に入れてふんばって、
覚悟を決めて私を信じたか、信じ続けたかを思った。
そしてその何十分の一かだけど、その踏ん張りを、愛することを、
彼女に対してしようと思ったんだ。

迷える人にズバリ言うこと、迷ってるときにズバリ言われること、
それら一瞬のカタルシスはろくなもんじゃないと思う。
あなたを思ってズバリ言うけどなんて人がいたら、私は
そんなの信用しないよ。

家族を含め、周りのごく限られた数人の大切な人たちを私は
総力あげて今、愛そうと思います。
あなた方のなかの光り輝くものを見続けたい。

その愛は違う種類の愛に通じるし、広がっていくし、
違う種類の愛も結局はひとつの愛だ。と思うのだ。
たぶん。
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by sho-ji21 | 2005-09-12 00:00 | エッセイのような

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